これまでの旅行は全てドイツ国内だったのですが、今回初めて国外へ旅行してきました。 行った場所は、オランダのアムステルダムで、2泊3日の日程でした。
車で行くことも可能なのですが(周りの人からも車で行けばって結構いわれました)、 今回は飛行機で行きました。ベルリンのテーゲル(Tegel)空港から アムステルダムのスキポール(Schiphol)空港まで約1時間半のフライトでした。 現地での行動時間をなるべく多く取るために、ベルリンを6時40分出発の飛行機!! 朝起きはそれなりにつらかったですが(笑)。
スキポール空港からは電車でアムステルダム中央駅(Amsterdam Centraal Station)へ。
アムステルダム中央駅 |
1889年に海上に埋立地を造成して建てられた立派な駅です。海に8000本も杭を打ったそうです。 なんとなく雰囲気が東京駅に似ているなぁと思った方、鋭いです。東京駅はこの駅をモデルとして 建築されたそうで、色使いもデザインも似てますよね。
ホテルに荷物を預け(チェックインには早すぎたため)、観光開始です。 今年はオランダが誇る印象派の巨匠ゴッホの生誕150周年なのです。 さっそく世界最大のゴッホコレクションを所蔵するゴッホ美術館(Van Gogh Museum Amsterdam)へ。
まだ開館の1時間前でした | 通りに面した側のこれが目印 |
着いてみたら、なんとまだ開いてない!! よくみれが10時からで、 私たちが着いたのは9時だから、開館まであと1時間もあります(それならもう1本遅い飛行機でもよかった...)。 近くにあったフォンデルト公園(Vondelpark)を散歩した後、再度戻ってきて入館しました。
年代ごとにコーナーを分けて展示してあるので、作品の変遷が良く分かります。 時代時代によって本当に絵が変わっていって、同時に彼の心の葛藤が強烈に伝わってきました。 日本語の音声解説が入ったオーディオヘッドフォンを借りることができるので、 内容もしっかりわかります。
ゴッホコレクションで有名な美術館がもう一つ、ホーヘ・フェルウェ国立公園(Nationaal Park De Hoge Veluwe)の中にあります。 ゴッホ生誕150周年ということでゴッホ美術館の前からシャトルバスが運行中でした。 バスの運転手に尋ねたら、なんと片道1時間半!! おいおい、そんなにかかるのぉ!? 地図で確認するとアムステルダムから西に100Kmくらい離れた場所なんです。 でも、その場所は交通の便が良くなく、電車とバスを乗り継いで辿り着くような、 なかなか行く機会に恵まれない場所。そしてそこには有名な『星空のカフェ』がありまして、 これはうちの奥さんのお気に入りの絵で、本物を観られる機会はこれを逃したら無いかもよと説得され、行くことにしました。
バスは街中を出て高速道路をひた走り、そして緑の国立公園の中へと入っていきました。 駐車場から歩いて数分、ついに到着しました。クローラー・ミューラー美術館(Kroeller-mueller Museum)。
国立公園内の静かな美術館 | 看板も控えめ |
この美術館の創設者、クローラー・ミューラーは初めはアンティークな置物や家具を収集していたのですが、 その後ゴッホに魅了されたようで情熱的にコレクションをしたそうです。事実、見事なまでのゴッホコレクションでした。 そしてあの『星空のカフェ』もここに所蔵されており、本物を観ることが出来ました。 片道1時間半の道のりでしたが、来て良かったです。
野外にも作品が並びます | 乗り降り自由の自転車 |
美術館の周りの野外にもロダン、ムーアーなどの作品が並べられていました。面白かったのが自由に乗り降りできる自転車です。 国立公園は非常に広大なので、公園内4ヵ所に自転車駐輪場があって、自由に乗り降りすることが出来ます。 これで公園内を移動するんですね。そうそう、アムステルダムは自転車王国なんです。街中もたくさんの自転車が走ってますし、 道路も自転車専用車線がしっかり整備されてます。
絵を堪能し、またシャトルバスに乗り込んでアムステルダムに戻り、初日の観光を終えました。
2日目はまず国立博物館(Rijksmuseum)へ行きました。建物の雰囲気が中央駅と似ているのは設計者が同じだからです。 こちらも見事な建築物ですね。
設計者が中央駅と同じ、国立博物館 |
行ってみると、やたらと人で混みあっているんです。ちょうど開館時間になっているはずだし(今日はチェック済み)、 もしかしてこんな朝から入館制限してるの!?と思ったら、なんとこの建物を使って映画のロケをやってまして、 それで通行が制限されていたんです。
撮影中で通行制限 | 制限を無視して自転車で突破!! | 映画は中世が舞台のようです |
馬車や人の服装から中世が舞台でしょうか。そしてここで凄いことがありました。 なんと係員の制止を振り切って、自転車にのった人が馬車を追い越して強行突破!! (中央の写真の左から三番目の人影で、柱と馬車の間にいる自転車に乗っている人、分かります?)。 中世の舞台で馬車を追い越して自転車が現れたら、監督もさぞかしあきれたことでしょう(笑)。 映画のタイトルまでは分かりませんでしたが、完成した暁には大ヒットすることをお祈りいたします。
ほどなく映画の撮影も終わり、いよいよ入館です。 ただ、博物館中のアスベストを取り除く工事が行われている最中だったため、 開いているのは絵画コーナーのみになっていました。他にもオランダ絵画、彫刻・工芸、版画、オランダの歴史、 アジア美術などもあるんですけど。でも、不幸中の幸いと言うべきか、 一番観たかった絵画が観られるし、もともと全部を観て周ってしまうとここだけで1日が終わってしまうくらい大きいし、 さらに一部しか開いていないため入場料も割引(笑)、むしろ良かったですね。
この博物館の所蔵品は、レンブラント、フェルメール、ハルスなどなどで、 17世紀の巨匠作品が目白押しです。そして目玉は、なんと言ってもレンブラントの『夜警』ですね。 それは一番奥に展示してありました。
一番奥にレンブラントの絵が |
その手前の各コーナーにそれぞれの作品があるのですが、注目はフェルメール。 生涯に30点ほどしか残されなかったフェルメールの作品のうち、 この日は『小さな通り』『牛乳を注ぐ女』『手紙を読む婦人』『恋文』4点が並んで飾られてました。
フェルメール『牛乳を注ぐ女』 | フェルメール『手紙を読む婦人』 |
フェルメールに感動した後は、レンブラントの大作『夜警』へ。 今まで写真でしか見たことが無かったのですが、本物はまさに大作!! その大きさにも圧倒されました。 この絵、描かれた当時は不評だったそうです。もともとレンブラントは肖像画家師で、 貴族や自警団の肖像画(ひらたく言えば似顔絵)を描いてお金をもらって生計を立ててました。 その彼がそれまでになかったタッチで描いたこの絵なのですが、 かっこよく描かれていると思っていたのに、なんともだらしなく描かれた自分の姿をみて、 自警団の隊長はえらくご立腹!! さらに中央の3人以外はぼやけてしか描かれていないので他のメンバーもご立腹!! これ以降、彼には注文がほとんどこなくなり、収入がなくなり、悲惨な状況の中で生涯を終えます。 この絵が評価を得たのは、不幸にも彼の死後しばらくたってからなんだそうです。
レンブラント『夜警』 | 『夜警』のコピー |
『夜警』の横には壁に掛けられるほどの小さな夜警のコピー版がありました。 解説によると、これはCaptain Banning Cocqが夜警にいたく感動して、 自分のためにこの小さなコピーを作ったのだそうです。で、このコピー版から一つの事実が分かります。 それは、もともとの『夜警』はもっと大きな絵だったということなんです。 写真では分かりづらいかもしれませんが、中央の3人の特に左側と上側のスペースを比較してみてください。 実は1715年に『夜警』は別の場所(Kloveniersdoelenという地名)から アムステルダムのタウンホールに運ばれてきたのですが、 なんとその際に、展示しよう予定されていた(2枚のドアに挟まれた)壁に設置できるようサイズを小さく、 すなわち絵をカットした!! 約300年前の出来事とはいえ、すごいことをしたものです。 今の国立博物館に移されてからも、1975年にナイフで傷つけられる事件がありました(今は完全に復元されてます)。 いろいろなことを被っている絵なんですねぇ。
国立博物館で絵を観ている間に外は大雨になってまして参りました。そこで傘をささずに観光出来るので、 運河を巡る観光、遊覧船にのることにしました。
運河を巡る船にはいくつかのパターンがあります。巡回していて途中に設置された停留所で乗り降りが出来るもの、 アムステルダムを出発して結構遠くへ行ってしまうもの(どこだか不明)、 あとはまさに観光船で出発して一回りしてまた同じ場所に戻ってくるもので、私たちはこれに乗りました。
この船の運転手 | 結構長めの船です |
船は比較的大きめでした。まず湾の方に出て遊覧し、それから運河を辿りながら街中を見れまわれるコースです。 運転手(船長?)も乗り込み、いざ出発。湾の中では岸にある建物や港に来ていた豪華客船などが見られました。 で、ここで凄いことが。なんと運転していたおじさんが、突然バケツを持って甲板に出て窓を拭き始めたんです。
ちょっとちょっと、前進し続けてるんですけど... |
広い湾の中とはいえ、他の遊覧船やヨット・小さな船がたくさん行き来している中を船は前進し続けているわけで、 舵とる人がいなくていいんですか!? そりゃ前が見づらいことも安全に関わりますが、この状態で前進するのもいかがなものかと...。
とりあえず何事も起きず(だから今は笑い事だけど)、観光続行です。 面白いのは、運河の上に家があったりするんです。船を固定してあるもの、 または完全に四角い家を浮かべているものなどですが、これがれっきとした住居なんです。
運河に浮かぶ家 | マヘレのはね橋 |
アムステルダムに残る唯一の木製のはね橋、マヘレのはね橋(Magerebrug)も見ることが出来ました。 乗った船はこの下を通りませんでしたが、この橋は今でも現役で、大きな船が通るたびに橋を上げるんだそうです。
船を降りるころには雨もほとんど止んでいました。次はレンブラントの家(Rembrandthuis)へ行きました。 レンブラントの顔の看板が目印です。
この顔が目印 | レンブラントが19年間生活し創作活動した家 |
次は王宮(Koninklijk Paleis)へ。王宮と呼ばれるにふさわしく巨大で威厳あるルネサンス建築の建物です。 もともとは17世紀に市庁舎として建設され、1808年からは皇帝ナポレオンの弟であるルイ・ナポレオンが オランダの王として使用しました。その後オランダのオレンジ王家ヴィレム一世の時にアムステルダム市に返還、 1936年にオランダ政府の所有物になり、現在でも宮殿として使用されているのだそうです。
王宮、さすが女王の居城 |
入ってすぐのそこは市民の間と呼ばれる建物の中心にあるホール。床は大理石のはめ込み細工で 天体や地球の地図が描かれ、高い高い天井からはクリスタルのシャンデリアが吊るされていました。
見事な美しさのホール、市民の間 | ギャラリーもこの美しさ |
宮殿の中には法廷、小陪審院、市長室、判事室、市評議会室、破産室などのいくつもの部屋があり、 それぞれに綺麗な絵画が飾られ中世の調度品がおいてありました。
罰金600ギルダー以下はこの小陪審院で | 破産宣告がされた破産室 |
興味を引いたのが破産室です。私が破産間近かだからではありませんよ、念のため(笑)。 この部屋で破産宣告がなされたのですが、ここに飾られているレリーフは、 あのイカロスが題材です。日本でイカロスといえば、ろうでつくった羽で挑戦し、 ♪勇気ひとつをともにして〜♪と歌われて英雄になってますよね。 ここでは、太陽に接近しすぎたためろうが溶け海に落ちて溺れて死に至ったことを主題にしたレリーフが 破産室に飾られているわけです。
新教会、現在の女王もここで即位 | マダム・タッソーろう人形館 | ダイヤモンドセンター |
王宮があるダム広場(Dam)には他にも、現在も国王の戴冠式が行われる新教会(De Nieuwe Kerk Amsterdam)、 ロンドンに本家本元がある有名なマダム・タッソーのろう人形館(Madam Tussaud Scenerama)、 そしてベルギーのアントワープとともに世界中のほとんどのダイヤモンドを研磨しているといわれる アムステルダムにふさわしく、大きなダイヤモンドセンター(Amsterdam Diamond Centre)があります。 今回、新教会には時間が合わずに入れませんでした。ろう人形館はもともと予定外。 ダイヤモンドセンターはちょっと見ただけで買ってません、というか買えません(笑)。 ダム広場を出て、街中でお土産を探しながらホテルに向かい、2日目の観光は終了です。
最終日は飛行機の時間の関係もあり、昼過ぎまでの観光となりました。
この3日間、街中はトラムと呼ばれる路面電車と徒歩で移動しながら観光しました。
街中を走るトラム | トラムの中はこんな感じ |
アムステルダムの街の中はトラムが中央駅から南にむかって路線が張り巡らされています。 ですので、トラムで目的地の最寄まで行き、そこから歩くことで市内は不自由なく観光できます。 逆に車が入れない路地がたくさんあります。一方、自転車はどこでもガンガン走ってます(笑)。
さて、最終日に向かった場所、それはアンネ・フランク・ハウス(Anne Frank Huis)。 説明するまでもなく『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクで、 彼女と家族らが2年間隠れ家として住んでいた家です。
フランク一家が隠れ家として住んでいたこの建物には、表の家と裏の家があります。 表の家は、父であるオットー・フランクが経営する会社があります。 裏の家が一家が隠れて住んでいた場所です。ドイツから迫害を逃れてアムステルダムに来たのですが、 ドイツがオランダを占領して以後、ナチスのユダヤ人に対する迫害が強くなり、 1942年7月6日から一家をはじめとする8人が潜伏生活を送り始めます。 会社の従業員たちが隠れ家の生活を支えていたのですが、1944年8月4日、隠れ家が密告され、 ここの住人は全員、強制収容所に連衡されました。
1945年3月、チフスと栄養失調のためにアンネは15歳にしてこの世を去ります。 彼女の姉マルゴーの死から数日後のことです。 アンネの友人であるハンネリ・ホースラルは言います。「アンネは自分の両親がすでに死亡しているものと 思っていました。あの時、父親がまだ生きていると知っていたら、アンネももう少し 生きる気力を持てたのではないかといつも思います。」 アンネの死は、彼女がいたベルゲン=ベルゼン収容所が解放される、わずか数週間前のことでした。
オットー・フランクはただひとり収容所生活を生き延び、1945年6月にアムステルダムに戻ってきます。
そして7月に二人の娘が収容所で死んだことを知ります。その時、隠れ家生活を支えた従業員の一人である
ミープ・ヒースから「アンネからあなたへの遺産です」といって日記を手渡されます。
隠れ家の住人たちが連行された後、300枚以上にのぼるアンネが日記を綴ったノートや紙切れを集めて
大切に保管していたのです。オットー・フランクは、母親に宛てた手紙の中でこう書いています。
「ここの友人たちが写真を少しとアンネの日記をとっておいてくれた。
もう私の手の中にあるのだが、まだこれを読むことが出来ない。」その後、最初にオランダで、
そして世界中で『アンネの日記』が出版されます。
アンネ・フランク一家が住んでいた家 | いつもここは混んでいます | すぐ側に建つ西教会 |
アンネ・フランク・ハウスの新館の方には、日記の一部、関係者の写真と彼らへのインタビューが ビデオで見ることが出来ます。 隠れ家の方は、隠し扉、アンネやマルゴーが背比べをして壁に書いた線、 アンネが壁に貼った当時の写真や雑誌の切り抜きなどが、そのまま残されています。 アンネ・フランクはそこに実在した人物であり、彼女と彼女の一家に起こった悲惨な出来事が 歴史的事実であること、そして悲劇を決して繰り返してはいけないと、語りかけてくる空間でした。
アンネ・フランク・ハウスは常に多くの人が訪れているため混んでいて、 いつでも行列が出来ているようですが、アムステルダムに来たら、是非ここを訪れてみてください。
アンネ・フランク・ハウスを後にして、昼食を食べて空港へ向かいました。
そうそう、オランダにはたくさんのインドネシア料理のレストランがあるって知ってました? これはインドネシアが旧オランダの植民地だったからだそうです。 私達も1日目の夜と最終日の昼にインドネシア料理を食べに行きました。
『サンプルナ』ここは美味しかった!! | 『ボヨ』は正直、いまいちでした |
一日目の夜に行ったのは、ダム広場にあるサンプルナ(Sampurna)というお店です。非常に人気があるようで 店内もすごく混んでました。私たちは2名だったので壁際の小さい席にどうにか座れて、 食事をすることが出来ました。ナシゴレン・バミゴレン・サテを食べたのですが、 これが本当に美味しいかったです!! ここは自身をもってお勧めできます。 最終日の昼食に行った店はボヨ(Bojo)です。ここはイマイチでした。 サンプルナに行ってください(笑)。
ということで、初めてのドイツ国外の旅行を満喫し、たいそうお土産も買ってきました。 あまりに品数が多かったので今回は1枚ずつではなく集合写真(!?)です。
随分買ってしまいました | コイン集めのためには(笑) |
あと、オランダのユーロコイン集めもしっかりやってきました。細かくコインでおつりをもらうべく、 何度もお菓子を買ったりしながら努力した結果、見事オランダは全種類収集完了です。
<追記>
クローラー・ミューラーで『星空のカフェ』の絵を買ってきました(お土産集合写真の真中辺りにあるものです)。 サイズは小ぶり(縦31cm×横25cm)ですが、紙に印刷されているポスターではなく キャンパス地のものです。後日ベルリンの額屋さんで木の額をつけてもって、 良い感じに仕上がりました。玄関を入ったところに飾ってます。
『星空のカフェ』 |